プロバビリティ・ムーン

自分に合うか微妙な印象があったので、読もうかどうしようかすごーく悩んだんだけど、読んでよかったと思う。


プロバビリティ・ムーン (ハヤカワ文庫 SF ク 13-1)

プロバビリティ・ムーン (ハヤカワ文庫 SF ク 13-1)

未知の生命体によって作られたスペーストンネルの発見によって人類は宇宙に進出している。宇宙には人類とおそらく同じ起源を持つ宇宙人がたくさんいて、どうも誰かに種をばらまかれたんじゃねーの的雰囲気。でもフォーラーという起源が違う宇宙人と戦闘状態になってしまっている。そんななか、遠い宇宙に「ワールド」と呼ばれてる星があって、そこは中世くらいの文明なんだけど、そこの第7の月が人工物だって分かって、フォーらーに対抗できる武器になるんじゃねえのって、地球人がやってきました。
まあそんな話で、人工の月をどうするかって話と、ワールドの上での人類学者の集団の話が交互に進む。
おもしろいと思ったのは、ワールドの人たちが「現実を共有」しているという設定。ワールドの人たちは、他の人と思考というか感情みたいなものを共有していて、例えば他の人と全然違う思考を持つ(たとえば誰かに殺意を持ったり、裏切ったり)と、激しい頭痛を起こす。現実を共有していない人は「非現実者」と呼ばれて人とみなされず「いないこと」にされるし、子供のときに「現実を共有できない」と分かった子供は殺されてしまう。なので、戦争、争い事は起こらず、平和である。
だけど地球人は現実が共有できない。でも、現実を共有していないと「人間ではない」ことになってしまうので、必死に現実を共有しているふりをする。でもたまに失敗して「ワールド」人に「現実が共有されているのになぜそんなことを聞くんだろう」と思われたりする。
これって現実が共有で来ていなくても、文化を共有している中に一人入ってきた異文化出身の人間だったら感じることだよなあ、とか思った。中国に出張して自分以外中国人だけの中で話しているとき、結構馴染んでいるつもりでも、何の気なしに言ったことで、みんなが「えー?」って顔で顔を見合わせたりすると、「あれ、なにがおかしいんだ?」って疎外感を感じたりすることがある。これってまあ、現実を共有できて無いってことなんだよな。
それをこの本を読んでいて思い出した。「猿の惑星」はアジア人の中にやってきた白人をモデルにかかれたという。この本の作者がはたして何にインスパイアされてこの本を書いたのかは分からないけど、そういう文化の壁みたいなことは感じたことがあるんじゃないかなあ、と思った。
今、続編の「プロバビリティ・サン」を読み始めた。