正しい日本語その後

拙作が「悪文」として紹介されたことに発しました記事(id:mizuno_takaaki:20060617:1150558415)は自分史上これまでないほどブックマークしていただきまして、普段では考えられないほどアクセスがあったもので、びっくりしました。コメント(日記もブックマークもトラックバックも)も賛否両論あって興味深いです。

この文章に関して言えば、お察しのとおりというかなんというか居丈高に「まあ詳しい俺に言わせればお前は間違っちゃってるわけだが」的なことを言われたことに対して腹が立って書いてしまった文章だよなあ、と後から見てこっぱずかしく思うのですが、いただいたコメントなんかを見ながらいろいろ考えました。

「正しい」という尺度として「文法」の存在がある、という指摘をされている方が何人かいて、そういう方も「あえて基準を探すなら」的なニュアンスを感じたので、たしかに基準を探すとすればそこだよなあ、という感じがしました。ただ「あえて」的な論調になるのは、結局言葉って文法が先にあったわけではなくて、ある時点で「違和感がない」とされる言葉を基にルールに落とし込んだものなわけで、いわばその時点でのスナップショットみたいなものだからなんだろうなあ、と。だからすっきりとしたルール化できずに例外が出てきてしまうんだろうし。「さ行変格活用」とか。

普段僕は日本語をしゃべるときに文法を気にしてしゃべっているわけではないし、文章を書くときだって文法的におかしくないように書こう、なんて一度も思ったことはありません。気をつけているのは、自分が書いたことが違和感なく読めるようになっているか、誤解無く伝わるようになっているか、話の流れがわかりやすく読みやすいかどうか、といったことだけです。結局、その「違和感無く」という部分が文法的に間違っている文章を減らす役目をしているのだと思いますが、基準は決して文法ではなくて「違和感がないか」でしかないんですよね。

一方、外国語を勉強するときには文法を学ぶし、たとえば英語をしゃべるときなんかも、僕は英語が下手なので、文法を気にしてしゃべることも多い。でもこれは、英語に対して、日本語と同じように「違和感」を感じるための能力というか経験が無いため、文法というルール化されたものを代用として使うしかないわけです。前にNHKで「ハートで感じる英会話」(タイトルうろ覚え)っていう番組をやっていて、ここではネイティブスピーカーの考え方を学ぶことで英語をしゃべろう、見たいな番組でした(本も出てます→asin:4141892750)。あと、なんかで読んだけど、不定冠詞の「a」と「an」の使い分けって、ネイティブスピーカーってあんまり意思してなくて、感覚的にやってるらしい。「a」をつけると違和感があるから「an」をつけてしゃべる、見たいな感じで。文法って多くの言語ではルール化されているのだと思うけど、きっとほとんどの国の人は文法考えならしゃべってなんていないんじゃないかと思う。

文法というルールを作っておくことは意味があるとは思うけど、文法を作った後でも言葉はどんどん変化してる。文法がどれくらいそれを追いかけているのかはわからないんだけれども、少なくとも旧仮名遣い時代の旧制中学時代の言葉の使い方は今とはきっと違うだろうなあ、という気がします。

結局文章というのはコメントでもいただいたとおり、「相手に意味を的確に伝える」ことができれば目標達成なんですよね。ただそう言う意味で、「すべき」と「すべし」のニュアンスの違いはどうなのか、といえば確かにリサーチしたわけではないので、どれくらい共有されているのかはさっぱりわからないなあ、と思いました。でもそれって方言とかも一緒ですね。うちの嫁さんはだいぶ標準語ですけど広島出身で、だからなのかわからないですが「煮る」ことを「炊く」といいます。辞書見たら「炊く」は「煮ること」って書いてあったことに今気づいたんですが、自分は煮ると炊くはイメージが違うので、すごい違和感を感じます。いまでも。

「相手に意味を的確に伝える」って、実はすごい難しいなあ。