正しい日本語なんて無いんじゃない

「今日の悪文と不正確発音」というまぐまぐから発行されているメールマガジンがありまして、拙作「Web検索エンジンGoogleの謎(asin:488166395X)」が取り上げられていましたよ。

水野貴明(2004)著、「Web検索エンジンGoogleの謎」 で「頻繁にデータを更新すべき」⇒「すべし」 「べし」の終止形を「べき」とする誤りは非常に一般化しており、 正しく「べし」と使っている例は珍しい。 そのわけは、この言葉「べし」は文語なので、 敗戦前の旧仮名遣い時代の旧制中学卒業者および 古文の文法知識が多い者しか正しく運用できぬからである。

うーむ。「頻繁にデータを更新すべき」ってたぶん見出しで、「頻繁にデータを更新すべきである」を略したものとして「すべき」を使っているので、「すべし」だと自分としてはニュアンスが変わってしまう気がするけれども、どうなんだろう。「すべし」は「すべき」よりも命令的圧力が強い気がするのです。「しなさい」ではなく「したほうがいいよ」というような感じ。この指摘はつまり「すべき」はあくまで「すべし」の誤用で同じニュアンスである、という認識なんだろうか。

まあ、これを書いた赤塚伊三武さんという方がそう思うのは自由だし、僕の本を読んでくれたことはありがたいし、出版物として流通させている以上、こうした使われ方をするのも仕方の無いことだとは思うけれど、やっぱり文章を書いているものとして「悪文」といわれるのはあまり気持ちのいいものではないなあ。

この方、何歳なのかはわからなかったけれど、プロフィールを調べたところ1975年に研究助成金をもらっていて、そのことを考えると、うちの親父と同じくらいか。しかも翻訳とかにかかわる仕事もしているっぽいし、「敗戦前の旧仮名遣い時代の旧制中学卒業者でなおかつ古文の文法知識が多い者」なのかな。

しかしいつも思うのは、「正しい日本語」ってなんだろうなあ、ということです。「言葉は生き物で、時代とともに変化する」っていう言葉もききますし。「美しい日本語」って言葉をみんな「自分の常識と照らし合わせて違和感のない日本語」って意味で使っていない? たとえば情緒あふれるすばらしい表現とかを使って書かれた文章を「美しい文章」というならわかるけれど。逆に言えば、「美しくない日本語」や「悪文」って「自分の常識とはずれた用法を利用した日本語」って意味で使っているというか。そもそも「悪文」ってそういう意味の言葉だったっけ? ということで調べてみました。

難解な言葉を使ったり、文脈が乱れていたりして、理解しにくい文。へたな文章。

意味違うじゃん! ...と自分も他人の誤用を指摘しそうになっていることに気づいたりして。

言葉はどんどん変わっているのだから、そういう人が言う「正しい言葉」だって、もっと昔にさかのぼれば「正しくない日本語」「美しくない日本語」ということになったりしないのかな。というか、「正しい日本語」という言葉を使う人は、何をもって正しい日本語を言っているのだろうか。

そもそも「「べし」の終止形を「べき」とする誤りは非常に一般化しており、 正しく「べし」と使っている例は珍しい。」って言っているんだから、一般化した時点でもうそれは正しい用法なんじゃね? 言葉は変化するものなのだから。個人的に違和感のある用法を自分自身が使わない、というのはいい。人の価値観は教育や時代である程度決まるし。だけど他人に「それは間違っている」と指摘するのはどうよ、とちょっと思いました。意味がわからない、というならともかく。あと誤字脱字とか。

たとえば「重複」という言葉があってこれは「ちょうふく」と読むものだったけど、最近は「じゅうふく」と読む人も多くなって、辞書にも載るようになった。「固執」は「こしゅう」だったけど「こしつ」とも読むようになった。自分は「重複」に関しては「じゅうふく」はなんだか違和感があるのでいつも「ちょうふく」っていうけど、別にほかの人が使うことはいいんじゃないかと思っています。言葉は変わるものだと思っているから。

と、ここまで書いてきたわけですが、本当は世の中に時代に関係なく不変の「正しい日本語」というものが存在していて、「すべき」がそれに違反している、ということがもしかしたらあるのかも知れず、そうしたらここで述べた意見はすべて「お前物知らないなあ」で片付けられるくだらないたわごとになってしまうのかもしれないんですけれどね。

というか「正しい日本語」ってどういう基準なのか、本当にわからないので誰か教えてください。